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■サツマイモは豊富なポリフェノールで活性酸素 を退治する! ★秋日和の午後、近くの幼稚園の子どもたちがビニール袋に入れたサツマイ モを手ににぎやかに歩いていた。芋掘りをしてきたらしく、大小さまざまな 芋が数個ずつ入っている。ホクホクと甘いサツマイモは秋の味覚の代表だが もともとは救荒作物として庶民の命を支えたものだ。江戸時代までさかのぼ って、サツマイモの歴史をたどってみよう。 1732年(享保17年)、前年冬から続いていた天候不順が一層悪化して初夏に なっても雨と低温が続いた。稲や作物の生育が大幅に遅れているところに、 稲の大敵であるウンカ(イナゴ説もあり)の大群が西日本を襲い、1万2000人 が餓死したといわれている。これが江戸時代の三大飢饉のひとつ「享保の大 飢饉」だ。 この事態に、幕府は江戸から救援米を送るなどすばやい対応をした。しか し翌33年、救援米のために米不足になった将軍のお膝元・江戸では米価が急 騰して庶民の暮らしは切迫した。そんな時代に登場したのがサツマイモだ。 青木昆陽は九州地方で栽培していた八里半(味が栗-九里-に近い)という芋 が享保の大飢饉時に飢饉防止に役立ったことを伝え聞いていた。そこで町奉 行・大岡忠相にサツマイモの有用性や栽培法などをまとめた文書を提出する。 その結果、昆陽は「薩摩芋御用掛」に取り立てられ、薩摩藩から取り寄せ た種芋でサツマイモの栽培に取組んで試作を成功させる。1735年、将軍吉宗 の命で普及用の冊子『蕃諸考(ばんしょこう)』を刊行したことでサツマイモ は各地に広まっていく。そして昆陽は、「甘藷先生」と呼ばれるようになる。 太平洋戦争下でも庶民の主食になったのはサツマイモだ。国の号令でサツ マイモ大増産運動がはじまり、農家のみならず家庭でも栽培が奨励された。 その結果、庭先はもちろん植樹帯や空き地、校庭や焼け跡はイモ畑に変わる。 国会議事堂前や新宿御苑にもイモ畑が広がった。空襲に怯えながら毎日イモ やイモのつるばかり食べた人たちのなかにはサツマイモは今も苦手だと仰る 方もある。 しかしサツマイモは機能性が高く、豊富なポリフェノールで活性酸素を退 治して生活習慣病を予防する野菜だ。表皮近くのクロロゲン酸は動脈硬化や がんの予防に、実の部分のβ-カロテン(黄色:金時など)やアントシアニン (紫色:紫イモなど)には血圧低下や便通の改善、老化予防に効果がある。 いまではサツマイモの品種改良が進み、味も一層よくなっている。焼く・ 蒸す・揚げる・煮るなどじっくりと加熱すると甘みが増すので、この時期の 新物でお試しを! |
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